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2017年08月25日

034 八尋俊邦「疲れたら休め、やがて休むことに飽きてくる」

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長いことご無沙汰しました。

次の無料レポートのことを考えると、なかなか筆が進みませんでした。それがずーっと続いてしまいました。

最近出かけることが少なくなって、自分でも不安でした。家内は家猫がいるため、泊りがけや長時間外出はできなくなりました。従って出かけるなら一人旅です。

どこか出かけなきゃ、このままでは、と思っていました。8月と言えば、海だとか、お盆とかありますが、田貫湖からのダイヤモンド富士の季節でもあります。プログラムで調べたところ、富士山頂上の平らな部分での日の出は17~22日。天気予報で調べたら、ずっと天気が良くない。23,24日になれば晴れそうだとわかりました。

19日(土)天気を確認したら、20日(日)晴れるとのこと。行きたいと思ったのですが、日曜日なので、観察場所(デッキ)が混んでダメだと諦めました。


そして昨日23日(水)行ってきました。
準備が悪く、予定より1時間遅れ、3時前に横浜の自宅を出ました。一般道のつもりが、遅く出たため東名高速を使って、新富士で降り5時前には田貫湖に着きました。明るいです。

キャンプ場側だと山頂の真ん中に日の出が昇る予定ですが、湖の波があるため水面に写った富士はうまく撮れません。それで山頂からは欠けますが、休暇村前のデッキを選びました。

5時前に着いてもデッキの最前列は空いてませんでした。中段の所に三脚を立て場所を確保して、日の出を待ちます。時間が経つに連れ、人が増えてきました。日の出は富士山の頂上なので、平地の1時間ほど遅れ6時ころ。日の出を待ちます。

山頂の右側がだんだん明るくなってきて、光が差し込んできてシャッターを切ってると、すぐ眩しくなり太陽の光が強すぎて撮れなくなってしまいました。いつもの通りです。

急に暖かくなり、暑いくらいです。みんな三々五々帰って行きました。私は最後の方で、三脚、椅子、カメラなどを片付け、車に積んで次の場所へ。

今回は白糸の滝、薩埵(さった)峠、三保の松原を観光して、帰りに由比漁港で桜えびのかき揚げ丼を食べて帰ろうと思いました。

結果的には由比漁協が休みで、田子の浦漁協のしらす沖漬け丼を食べて、一般道で帰ってきました。疲れた1日でした。

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【ダイヤモンド富士】
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【田貫湖デッキ】
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【音止の滝、白糸の滝】
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【薩埵(さった)峠から富士山を望む】
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【三保の松原】
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【田子の浦沖漬け丼】
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疲れたら休め、やがて休むことに飽きてくる

三井物産 八尋俊邦

人間は、「明日はもっと幸福になる」という希望に生きている。だから、左遷されて未来を閉ざされた人が、耐えきれずに会社を去るのはむりからぬことだ。「さしたる仕事も責任もなく給料がもらえるんだから、いい身分じゃないか」などと割りきれるものではない。

降格や左遷の屈辱に耐え抜くには、自分の明日を信じる桁外れに強靱な精神が必要だ。逆にいえば、そういう強さを持つことができたとき、復活への道も開けるのである。

三井物産の八尋俊邦(やひろとしくに)がその好例であろう。

八尋は、昭和15年(1940)に三井物産に入社した。太平洋戦争中はベトナムに駐在、1年の抑留生活を余儀なくされたが、復社後はベトナム時代の経験を生かしてゴム関係の仕事で活躍し、若くして神戸支店のゴム課長に昇進する。

ところがこの課長時代に、ゴム相場が暴落した。しかも八尋の対応が遅れたために、大損害を出してしまう。

八尋を待っていたのは、課長から平社員への降格だった。
どんなに会社に貢献し、卓越した能力を誇っても会社員の身分ははかない物だ。そして能力や貢献度が大きいほど、屈辱も激しい。

八尋は辞表を出そうと思った。何度も思った。

だが彼は踏みとどまる。過去の栄光は過去のもの。大切なのは、どんな境遇にあっても、今をどう生きるかである。

こうして、八尋の有名な座右の銘「ネアカ、のびのび、へこたれず」が生まれた。

この言葉からは、逆境をどう処せばよいのか、明日への希望をいかにつなぐかが、せつないほどに感じられる。嵐のときは休んでいればよいのだ。焦って消耗することはない。

雌伏1年、八尋は石油製品関係の部署へ配属され、そこで奮闘し、のちに三井物産の花形となる化学品総括部長へと出世する。降格人事から30年後には、副社長にまで昇進した。後に、社長として指揮をとった巨大プロジェクト、イラン・ジャパン石油がイラン革命とイラン・イラク戦争によって頓挫したときも、八尋は決して暗く沈むことはなかった。イラン側との難交渉をねばり強く続け、ついに三井物産のトップに昇りつめることができたのである。(1分間自己啓発(成美文庫)より抜粋)

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八尋俊邦(やひろとしくに、1915年2月1日 - 2001年10月27日)は三井物産の社長や会長を務めたほか、商社出身者として初めて経済団体連合会副会長を務めた。

東京で生まれたものの日本製粉勤務の父の仕事の関係で、まもなく福岡県久留米市に転居。4年後、父が下関支店長となったため、下関に転居。

養治小学校、旧制豊浦中学校(のちの山口県立豊浦高等学校)、旧制第二神戸中学(のち兵庫県立兵庫高等学校)を経て、1932年旧制麻布中学校卒業。旧制東京商科大学(のちの一橋大学)卒業。大学では一橋新聞部、上田辰之助ゼミナールに所属。

1940年三井物産入社。サイゴン支店で石井正巳大尉(のちに三井物産会長)と友人になった。戦後、1年間の抑留生活を経て、1946年7月に日本に帰国。上司の新関八洲太郎の紹介で、三井物産穀物油脂部長を経て交易営団副総裁を務めていた加藤徳善の娘と、1947年に結婚。

財閥解体後、独立するが、1949年に水上達三の誘いを受け第一物産に復帰する。

1950年ゴムの統制がはずれ、民間の自由貿易になったのを機に設置された神戸支店の初代ゴム課長になった。 だが、1954年約100トンを買い持ちした生ゴムが大暴落して膨大な損を出し、信賞必罰の社内内規適用第一号としてヒラ社員に降格される。輸出化学品課長代理を経て、1956年石油化学品課長就任。

池田芳蔵前社長の指名を受け、1979年から1985年まで三井物産社長。1985年会長。経団連副会長も務めた。1987勲一等瑞宝章授章。2000(H12)年顧問。

80年代に起きたイラン革命とその後のイラン・イラク戦争という激動を受けて、存亡の機にあった日本とイランの合弁プロジェクト、IJPC(イラン・ジャパン石油化学)事業で、日本人技師の引き揚げを決断するなど処理に奔走、同事業の清算に道筋を付けた。 持ち前の明るさと豪放らいらくな性格で、苦境の同社をリードした。

趣味は麻雀、カラオケ、歌舞伎、ゴルフ。日本麻雀連盟副総裁も務めた。

2001年10月27日脳梗塞のため福岡県の病院で死去、享年87歳。


1915年 - 東京生まれ
1932年 - 旧制麻布中学校卒業
1934年 - 旧制東京商科大学(のちの一橋大学)予科入学
1940年 - 三井物産入社、営業部配属
1946年 - 三井物産物資部企画課
1979年~1985年 - 三井物産社長
1985年 - 三井物産会長
1986年~1992年 - 経済団体連合会副会長
2000年 - 三井物産特別顧問
2001年 - 死去

..................

イランのイスラム革命、イラン・イラク戦争が発生して、それまでイランを支援してきたアメリカがイスラム革命を嫌い、イラク支援に変わった。日本はイランとの間でIJPC事業を進めていたが、西側諸国がイラク支援になったため、イランと敵対する立場になり、IJPC事業からの撤退が必要になった。

八尋さんを知ったのはIJPC事業撤退でのこと。

日本のエネルギー資源確保の目的で70年に始まったIJPC事業、中東戦争の荒波をかぶりながらも78年には建設工事の85%までが完成した。だが79年にイラン革命が起き、80年にイラン・イラク戦争が始まってしまった。この間、総事業費は7300億円にまで増額されていた。

だがイラン・イラク戦争は激化の一途をたどり、IJPCの工事現場までが爆撃を受けるにいたる。その結果、プロジェクト全体が81年11月には打ち切られてしまった。その後の残務整理や清算に8年近くの歳月がかかり、89年1300億円の清算金まで払って幕を閉じた。壮大かつ無残なIJPCの破綻ドラマだった。

企業としては日本のエネルギー確保のため、とのことで始めたわけだが、相手国の政変で撤退せざるを得なくなり、八尋さんは何度も苦汁をなめながら、根気強く撤退を進めた。


【名言・格言】
●成功するサラリーマンの3つの条件
成功するサラリーマンの条件は、「ネアカ、のびのび、へこたれず」です。

●自分は強運だと思い込む効用
自分は強運だと思うことで、どんな試練にぶつかってもへこたれずにここまで来れたのです。

●まずい事態に陥っても少しずつ動き続けること
身動きできない状況の中で、体を少しずつ、しかし絶えずゆすぶり続ける。そこに、事態打開の糸口が見えてくる。【覚書き:IJPC(イラン・ジャパン石油化学プロジェクト)清算問題での苦悩と葛藤を振り返っての発言。一兆円近い損失が出た】

●人生精一杯生きなければもったいない
人それぞれに生き方は違うだろうが、人生は精一杯走り続けなければもったいない。なにごとも、粘り強く、あきらめない。そうすれば、道は開け、張合いも出てくる。

●利益なければ社会貢献なし
利益を上げなければ会社は社会になんの寄与貢献もできないわけです。しかし、営利会社だからと言って、営利のために手段を選ばず、国益に反し、大衆に不当の迷惑を及ぼしてまで儲けに走ることだけは厳に慎まなければなりません。士魂商才ということばを私はこうした意味合いで心にとめ、企業における個々人の行動基準として大切だと考えているのです。

●必死に営利を志し、一方でプライドと克己と信義を忘れない
社会のため、自分の会社のため、各々の家族のためにも必死に営利を志し、儲けなければいけないが、片時も侍の魂を忘れることなきよう、プライドと克己と信義を重んじつつ、一方では商人道に徹し「売らせていただきます」「買わせていただきます」の謙虚な態度を崩してはならないということです。

●キャプテン・オブ・インダストリー(産業の統率者)になれ
一橋大学時代に「キャプテン・オブ・インダストリーたれ」「士魂商才を忘れるな」と教えられて以来、この士魂商才こそ社会生活における私の行動指針であり、常々社員諸君にも訴え続けています。そもそも、会社というものが存在する目的は、そこに籍を置く社員一人一人がそれにより個々の生活を支えつつ、同時に企業体を通じて人類社会へ貢献することだといえましょう。

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Posted by t6095_1208 at 04:32コメント(0)
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2016年04月10日

033 石原俊「負けることを恐れるな、負け犬根性を恐れよ」

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暖かくなって、春らしくなってきました。
特に今日は暖かかったです。
近所を散歩しましたが、速足だと暑いくらいでした。汗をかきました。

しかし一昨日の雨、風で東京近郊の桜は大分散ってしまいました。
今日は散った花びらがきれいでした。

私の桜は、河津桜、ナポレオン、暖地サクランボは先月散ってしまいました。
ただ4年前身延山で買った桜が、今年はじめて5輪の花を咲かせています。

昨日、自宅の色々な花の写真を撮りました。
チューリップ、クリスマスローズ、カイドウ、アケビ等の写真をブログに載せます。

今年初めての筍を掘ったのが、もう1週間たってしまいました。

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1週間前
【花桃】
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【身延桜】
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【コブシ】
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【筍(たけのこ)】
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【チューリップ】
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【クリスマスローズ】
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【カイドウ】
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【アケビ】
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【名称不明→ハナズオウ(花蘇芳)】
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【名称不明→シャガ(著莪)】
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負けることを恐れるな、負け犬根性を恐れよ

日産 石原俊

石原俊(たかし)は、日産自動車の経営トップというより、経済同友会の顔としてなじみ深い。政治家の資金集めパーティへの苦言をはじめ、歯に衣着せぬ明快なもの言いで、ともすれば経団連に比べて影の薄かった同友会に脚光を浴びさせた財界のスターである。

しかし、若くして「将来の日産を背負って立つ男」といわれた石原も、社内体制から、苦汁をなめさせられた時代があったのである。

昭和24年(1949)34歳の石原は、日本興業銀行から日産再建に乗り込んできた川又克二によって、本社経理部長に抜擢された。期待にこたえて抜群の能力を発揮し、29年には取締役に就任するというスピード出世だった。が、このころからにわかに逆風が吹き始める。

かって石原を大抜擢した川又は、日産を揺るがした労働争議を収拾し、社長に代わって経営の実権を握るようになっていた。

並行して川又は、争議の時に第2組合を結成して大きく貢献した塩路一郎を重用するようになり、川又と塩路が会社を掌握する。

誰もこの二人に逆らえないなか、言うべきことを言うのが石原だった。ついに昭和31年(1956)に石原は経理からはずされ、米国へと飛ばされることになる。しかも仕事は、経理のない販売だった。
だが石原は踏みとどまった。そればかりか、不可能とされていた米国での販売を軌道に乗せる。左遷から7年後のことであった。

業績が認められ、石原は本社に復帰して常務に昇進する。ときの社長は川又であった。
国内販売の担当になった石原は、精力的に全国のディーラーを訪問する。販売面で弱さのあった同社の体質を改善し、ここでも抜群の実績をあげた。そして昭和52年(1977)に社長に就任する。
石原は社長在任当時、こう語っている。

「会社組織というものは、いろんな個性の集まりでなくてはならない。人間は本来みな異なるわけで、松の木を杉の木に変えようたって無理な話だ」

人は逆風のとき、松から杉に転身しようとすることも多い。そういう負け犬根性が自分をだめにしてしまうことをうすうす知りながらも。だが、石原のビジネスマン人生には、ままならぬ組織のなかで「自分」を貫く毅然とした覚悟が見てとれる。(1分間自己啓発(成美文庫)より抜粋)

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石原俊(いしはらたかし、1912年3月3日 - 2003年12月31日)は日産自動車社長、日本自動車工業会会長、経済同友会代表幹事として、日本の自動車産業や財界活動に大きな影響を与えた。


東京の府立四中、旧制浦和高校を経て、1937年、東北帝国大学法文学部卒業後、日産自動車に入社。経理・財務関係の部署に勤め、専務や副社長として川又克二社長を支えた。

1977年6月、前任者の岩越忠恕を継いで同社の社長に就任すると、新経営方針の「グローバル10」を発表し、労使関係の改革に着手した。これは、世界の自動車生産における日産のシェアを10%へ引き上げるという目標を掲げた積極的な経営方針の表明であり、その後10年近く続く労使対立のきっかけともなった。

日産では川又の前任者である浅原源七社長時代の1953年の大争議中に労使協調路線の労働組合である日産労働組合が結成され、影響力を及ぼしていた塩路一郎委員長は同盟系の自動車総連初代会長も兼任して、日産の内外で大きな影響力を公使した。長年にわたる川又との蜜月状態は日産の労使関係を安定化させ、日産をトヨタに次ぐ日本第二の自動車メーカーに発展させる一助となったが、経営陣は労働組合(すなわち塩路)の同意無しでは意志決定が出来ないという弊害も生んでいた。

当時の石原社長は「グローバル10」で野心的な経営拡大方針を示し、当時深刻になっていた貿易摩擦への対応策として、アメリカやヨーロッパでの現地生産や資本参加を進めた。1980年にはスペイン企業「モトール・イベリカ」への資本参加、ドイツのフォルクスワーゲンとの提携生産などを発表し、1981年にはイギリスのマーガレット・サッチャー首相との間でイギリス国内での現地工場建設協定に調印した。

この野心的な急拡大方針は労連の塩路委員長の反対を無視する形で進められたため、石原社長と塩路、すなわち新経営陣と労組の関係は悪化した。また、川又会長は塩路を支持し石原社長を批判したため、社内の混乱は拡大した。この社内抗争で、石原は1983年に川又を相談役に退け、まず経営陣内の主導権を掌握した。続いて、1982年に全民労協副議長となっていた塩路への本格的攻撃を開始した。
1984年に塩路の女性問題が発覚すると、石原による社内改革の主張が工場勤務社員からの支持を集めた。彼らは塩路に対し、長年に及ぶ組合内独裁や労働貴族と呼ばれる豪華な生活に対して不満をくすぶらせていた。石原は自らが会長になった後の1986年2月には塩路を全ての役職から退かせる事に成功した。なお、同年3月には川又が死去した。塩路は1987年に定年退職したが、その影響力は完全に失われていた。

1985年6月、石原は社長職を久米豊に譲り、自らは会長として引き続き日産の経営に携わった。既述の労組対策の他、世界市場での日産のシェア拡大とブランド定着を目指した。しかし、積極的な海外進出の多くは失敗に終わり、巨額の赤字を生んだ。また、従来のダットサン(DATSUN)ブランドをニッサン(NISSAN)に統一した決定も失敗と評され、特に北米市場で歴史と競争力を持っていたダットサン(DATSUN)ブランドを自ら放棄した日産の売り上げは低迷した。「グローバル10」の急拡大路線は1990年代のバブル景気崩壊により日産の財務体質を悪化させ、1992年の辻義文社長就任を機に石原は相談役に退いた。その後も日産の経営は迷走を続け、塙義一社長時代の1999年にはフランスのルノー傘下へと下るに至った。2003年12月31日死去。享年91。

[財界活動]
石原は日本経済の基幹である自動車産業の名門企業のトップとして、さまざまな財界活動に携わった。これは、業界トップのトヨタ自動車が東京から離れた愛知県の企業で、当時は財界活動に消極的だったという事情もあった。

石原は、日産社長からの退任が迫っていた1985年4月に経済同友会代表幹事に就任し、1991年に退任するまで、会員の増加・多様化や政策提言機能の強化を進めた。政界にも強い影響力を持ち「企業は一流、政治は三流」などと政権批判を繰り返し、1989年には竹下登首相の退陣を要求し話題を呼んだ。

学生時代サッカー部に所属し、日本リーグ開始当初からチームを参戦させ、Jリーグ創設の礎を構築した。また財界の一線を退いた後も、2002年のW杯招致に尽力し、2002年まで生きたいというのが最晩年の目標であったという。

[現在の評価]
世間や現在の日産自動車において、石原への評価は高くない。日産の公式サイト内では歴代社長のリストはなく、石原社長時代の主要な事象は記録されても、社長である石原の名前は記載されていない。

これは既述の通り、労使関係の改革による経営自主権の回復への評価より、その後の経営危機の原因となった「グローバル10」への批判が大きいためと考えられる。欧州進出を強行する石原に対して塩路が浴びせた批判が的を射ていた事も、石原への評価を厳しくしている。

一方、経済同友会においては、その活動を活性化させた功績が評価されている。石原の死去の際には、北城恪太郎代表幹事による悼辞が発表された。

石原が進めた現地生産がなぜイギリスだったのか?イギリスは労働意欲が低いと言われていた。またマーケットもアメリカなどに比べると圧倒的に小さい。

そして労働貴族塩路の存在だ。働きもしないでヨットを所有し、品川に7LDKの高級マンションを持ち、日産プレジデントとフェアレディ240Zを乗り回していた。かつ塩路(労組)の同意がなければ日産の人事や経営方針が決められない程の影響力を行使していた。この塩路を引き上げ、塩路に権力を持たせたのは川又だ。川又が引退する時、塩路も一緒に引退させるべきだった。結局日産としての遺恨を残してしまった。それを解消するのに、石原は社長時代の多大な精力を使わざるを得なかった。

日産没落は川又、石原、塩路3人の責任と言われているが、その意味で石原はかわいそうな役回りだったと思う。


石原俊の名前は何度も目にした。日産社長として英国進出や経済同友会代表として新聞などに出ていた。一時期、日産はトヨタに迫る勢いがあった。しかし80年代後半から90年代前半にかけて、売り上げが大幅に落ち込み、ホンダに国内2位の座を渡してしまったと思う。当時私は車通勤が多い勤務先で、友達が日産の車を何度か修理に出していて、「電気系の品質が悪い」とぼやいていた。労組との争いより以前に、商品の品質を万全な物として提供すべきである。当時の日産低迷も致し方なしと感じていた。


【石原俊(日産自動車元社長)語録】
●一つの職種を極める
「なにか一つをマスターすることが大切だ。技術屋なら製造技術とか設計技術とか、事務屋なら人事でも経理でも。その職種では社内はもちろん、業界全体でも「これならあの人」と評価されるくらい一つの職種を極めるべきだ」

●「会社組織というものは、いろんな個性の集まりでなくてはならない。人間は本来みな異なるわけで、松の木を杉の木に変えようたって無理な話だ。松は松で、杉は杉で伸びのびと育て、その上で全体のハーモニーをまとめていくことが(経営者として)第一の責務だと思う」

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Posted by t6095_1208 at 01:06コメント(0)
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2016年02月24日

032 堤康次郎「百の才能も一つの執念には及ばない」

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2週間前咲いた河津桜も7分咲き程度になりました。
 
河津桜は少し赤っぽいピンク色の花です。

蕾はもっと赤いです。

花が咲くときも緑の葉が出ています。

これから色んな花が咲いてきます。
楽しみです。

【自宅の河津桜】
IMGP8350

 IMGP8349

IMGP8341

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百の才能も一つの執念には及ばない
西部 堤康次郎

西部グループの祖、堤康次郎(つつみやすじろう)は、15歳の時に商才を予感させる逸話を残したほどの傑物だが、多才だけでは大事業をなし遂げることはできなかったろう。
 
逸話とは、こうだ。明治22年(1889)滋賀県の農家に生まれた堤は、家業を継ぐつもりで農業の本を読みあさるうち、燐酸(りんさん)肥料という新肥料を知る。すぐ、この肥料の製造会社を探し出し、自分が滋賀県全域の一手販売をしたいと申し込んだのだ。社長は、あいた口がふさがらない表情だったという。15歳の子供が「一手販売」などというのだから、あきれるのも無理はない。

その後堤は、父親がわりだった祖父の死を契機に農業を継ぐのをやめて上京、早稲田大学に入る。在学中も学業より事業に興味を寄せ、株で儲けた資金で三等郵便局長の権利を買い、さらには従業員100人あまりの鉄鋼所を経営した。

ところが、ほどなく鉄鋼所が倒産し、ここから失敗と挫折が続く。

雑誌社の社長になったが、結果は返品の山を前に途方に暮れるばかり。雑誌は廃刊になった。名古屋の船会社を買収し、木造船2隻で海運業に乗り出せば、室蘭へ航行中、2隻とも行方不明になり、あえなく撤退。真珠王、御木本幸吉にあやかって鳥羽で始めた真珠の養殖も、みじめな失敗だった。

たび重なる失敗の末、堤はある結論にたどりついた。

「儲けることを第一に考えたのがいけなかった。儲けは後からついてくるもので、まずは世の中のために役立つことを考え、それを実行してみよう」

この発想を得てから、堤の商才は順調に開花し始める。

まず着手したのが、不毛地帯の開発である。大正7年(1918)に軽井沢の千ヶ滝を開発、翌年には箱根強羅の土地10万坪を購入し、さらに翌年に箱根土地株式会社(のちの国土計画)を設立する。

後年、「そんな場末にデパートを建てても採算がとれない」と大半の役員が反対するなか、開業を断行したのも、「ここにデパートがあれば、どれだけ世のためになるかわからない」と考えてのことだった。当時の「そんな場末」とは池袋で、デパートとはいうまでもなく西武百貨店である。

商売はきれいごとではない。利潤の追求だ。しかし自分の利を追うだけでは発想がかたより、大きな仕事をなすのはむずかしい。信念と執念が必要とされるゆえんである。(1分間自己啓発(成美文庫)より抜粋)

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堤 康次郎(つつみ やすじろう、1889年(明治22年)3月7日 - 1964年(昭和39年)4月26日)は、日本の実業家もしくは財界人で、滋賀県選出の衆議院議員として政治家でもあった。西武グループ(旧コクド及び旧セゾングループ)の創業者。第44代衆議院議長。
五島慶太は東急対西武戦争(箱根山戦争・伊豆戦争)でライバルとも言われた。

略歴
1889年(明治22年)3月7日 滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(のち・秦荘町、現・愛荘町)の農家に生まれた。
1902年(明治35年)3月 八木荘小学校高等科卒業。彦根中学に入学手続までしたが、祖父の心配にたえかね進学を断念。農業に従事する。
1907年(明治40年) 京都の海軍予備校卒業。郡役所の雇となる。
1909年(明治42年) 上京し、早稲田大学入学。弁論部と柔道部へ入る。
1911年(明治44年) 日本橋蛎殻町の三等郵便局長となる。渋谷で鉄工所の経営を行う。
1913年(大正2年)3月 早稲田大学政治経済学部卒業。雑誌『新日本』を経営。
1914年(大正3年) 『日露財政比較論』を書く。
1915年(大正4年) 『新日本』の経営に失敗。
1916年(大正5年)4月 千代田ゴム株式会社専務となる。
1917年(大正6年) 東京ゴムを設立する。
1918年(大正7年) 木造船の建造と海運事業をやって失敗。軽井沢の土地開発に着手。
1919年(大正8年) 箱根開発に着手、強羅に10万坪の土地を買う。
1920年(大正9年)3月 箱根土地株式会社(後のコクド、現在は消滅)を設立。箱根、軽井沢の開発。目白文化村の分譲。
        4月 箱根遊覧船株式会社創立。永井柳太郎の選挙参謀として活躍。
1921年(大正10年) 湯の花沢買収に着手。
1923年(大正12年)12月 駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)を経営。関東大震災後、富豪や華族のもっていた大邸宅の分譲を行う。渋谷百軒店開設。
1924年(大正13年) 衆議院議員に当選。大泉学園都市開発着手。小平学園都市開発。
1925年(大正14年) 国立駅開設。東京商科大学(現・一橋大学)を招致。
1928年(昭和3年)1月 多摩湖鉄道(現・西武多摩湖線)創立。
1931年(昭和6年)1月 民政党評議員会長となる。
1932年(昭和7年)6月 斎藤実内閣で拓務政務次官に就任。
1940年(昭和15年)3月 多摩湖鉄道合併。菊屋デパート買収。
1941年(昭和16年)11月 豊島園合併。
1942年(昭和17年)4月 近江鉄道経営。
1943年(昭和18年)3月 前立腺肥大症を発症。
1946年(昭和21年)1月 公職追放となる。
1947年(昭和22年)12月 帝都百貨店を武蔵野デパートに合併。
1951年(昭和26年)8月 追放解除となる。
1953年(昭和28年)5月 衆議院議長に就任( - 1954年)
1964年(昭和39年)4月26日 死去

[生い立ち]
滋賀県愛知郡八木荘村大字下八木(のち・秦荘町、現・愛荘町)に農業兼麻仲買商・堤猶次郎、みをの長男として生まれた。5歳で父を腸チフスで失い、母が実家に戻されたことから、康次郎は妹・ふさとともに祖父・清左衛門、祖母・キリの手で育てられる。
 
1902年(明治35年)に八木荘小学校高等科を卒業し彦根中学校への入学手続をしたものの、祖父が「せっかくここまで育ててきたのに、彦根のような繁華なところへやって悪い人間になられたら大変だ」と心配したことから進学を断念して農業に従事する。1903年(明治36年)6月に祖母が死去すると、祖父とともに彦根へ出て米相場を張ったり肥料商を手掛けるも何れも失敗。翌年には八木荘に戻って、耕地整理と土地改良に精を出すことになる。

[名門校 早稲田大学へ]
1906年(明治39年)に京都の海軍予備学校へ入学し、翌年に予備校を卒業すると郡役所の雇員となる。同年に祖父が死去し、「堤の家の再興は、金を儲けよというのではない。金儲けもよいが、それより名誉ある堤家にしてくれ」と遺言を遺した。

1909年(明治42年)故郷の田地を担保に入れて5000円の金を工面して上京、早稲田大学政治経済学部政治学科に入学した。早大では弁論部と柔道部に属するも、授業はあまり顔を出さずに試験の時に通学するだけで副業やアルバイトに熱中していた。

また政治活動にも熱中し、中橋徳五郎の応援演説に大阪まで出張ったこともある。このように、大学時代に経済活動、政治活動において経験を積んだ。

1913年(大正2年)3月に早稲田大学政治経済学部政治学科を卒業(政治学士号を取得)すると、大隈重信が主宰し主筆に永井柳太郎を据えた政治評論雑誌『新日本』(1911年発刊)に社長として経営に携わった。

首相桂太郎による立憲同志会の結成計画に永井らも参加すると、これを追って創立委員に名を連ね、桂を介して後藤新平を、更に財界の大物だった藤田謙一を紹介される。だが名士とお近づきになるのとは裏腹に『新日本』を含めて康次郎の事業は何れも巧くいかず、不調を挽回しようと手を出した真珠の養殖も失敗。結局、最後の望みを不動産事業に託し、『感謝と奉仕』を生活信条とする

[実業家として]
康次郎が最初に不動産事業に着手したのは、沓掛村一帯(現在の中軽井沢駅周辺)の別荘地開発だった。1915年(大正4年)夏頃に早大の学生服姿で沓掛村に出向き、村長に「別荘地をつくりたいからできるだけ大きな土地が欲しい」と村有地の購入を打診した。隣の軽井沢が欧米の宣教師達の別荘地として発展していくのに危機感を抱いていたとは言え村民の議論は2年越で続き、1917年(大正6年)12月の区民総会での了承を経て60万坪(後の再測量では80余万坪)を30,000円(現在の数億円)で売却し、50軒の別荘を分譲することを条件として契約が成立した。

だがこの時点で康次郎は手許資金が不足していて、当時の妻であった川崎文の実家などから買収金を工面しても足りず、佐久の銀行から1万5千円借りて不足分は新聞紙を10円札の大きさに切って上下に本物の札を重ねて「見せ金」とした。沓掛一帯の分譲を行う会社として藤田謙一を社長に招聘し千ヶ滝遊園地株式会社を設立(資本金25万円)。沓掛の土地を一軒500円で簡易別荘として分譲販売を始め、その収益を基に1919年(大正8年)箱根の強羅に10万坪の土地を買収した。翌1920年(大正9年)には千ヶ滝遊園地を清算(計画倒産説あり)し、同じく藤田を社長として箱根土地株式会社(後のコクド、現在は消滅)を設立。更に湯の花沢10万坪を13万5千円で買収したり、1923年(大正12年)には駿豆鉄道(現・伊豆箱根鉄道)の経営権を掌握していった。関東大震災後には都内皇族・華族の大邸宅を買収し、目白文化村など住宅地として分譲した。

政界進出後も事業欲は衰えを見せず、大泉学園や国立・小平学園都市開発に着手し、東京商科大学の誘致に成功すると共にアクセス鉄道として多摩湖鉄道を開通。大泉学園開発では沿線を走る武蔵野鉄道との関わりが出来、1940年(昭和15年)には大株主の浅野財閥からの株式を買収して多摩湖鉄道をこれに合併させた。太平洋戦争中は武蔵野鉄道に加え(旧)西武鉄道の経営に参画すると共に、都内の糞尿処理対策や流木対策として糞尿運搬や木工業、更には合成ゴム・化学肥料製造、果ては銀行業(高田農商銀行)にまで事業の手を広げた。東京大空襲の最中でも、自宅地下壕に電話線を何本も引いて不動産の購入交渉を行い、戦災で地主が不在となったところを片っ端から自らの名義としたと言われている。

戦後は皇籍剥奪や華族の特権廃止・財産税などの負担に苦しんだ旧宮家や華族が都心部に所有していた邸宅地を買収し、華族やその関係者をグループで雇用して面倒を見ると共に邸宅地を活用してプリンスホテルを開業した。

堤康次郎が開発した国立は閑静な住宅街として、軽井沢、箱根などは日本の代表的なリゾート地として発展し、現在も人気を集めている。

[政治家として]
箱根土地の経営に関与している頃から、康次郎は永井柳太郎の選挙参謀となるなど政治にも関わっていたが、1924年(大正13年)の総選挙に滋賀5区(当時)から衆議院議員に立候補する。旧彦根藩士で家老職を務めた家柄である堀部久太郎が対立候補だったが、当時としては先進的な土地改革を公約するなどして大差で初当選を果たした。以後、途中の断続を経て衆議院議員には計13回当選。当選後は立憲民政党に所属し、1932年(昭和7年)6月斎藤実内閣で拓務政務次官に就任した。 翼賛選挙で推薦議員であったばかりか西武農業鉄道の首脳として国策に関与するなどしたことで公職追放を受けるものの、追放解除後の昭和26年(1951年)に民政党時代の同僚議員だった大麻唯男・松村謙三らの「民政旧友会」へ参加。民政旧友会は「新政クラブ」を経て、翌1952年(昭和27年)に改進党の結党に参加した。

1952年(昭和27年)の総選挙で国政に復帰し、1953年(昭和28年)5月に全野党に推される形で衆議院議長に就任( - 1954年12月)、議長秘書官は山本廣治と堤清二が務めた。議長の認証式には当時内縁関係にあった青山操(清二の母)を伴ったことで大きく批判され、しかも議長就任後は改進党とは距離を置き山下春江らと新党同志会を結成、保守合同を画策するなどした。

[晩年]
康次郎は、1963年(昭和38年)の総選挙で13回目の当選を果たすが、この時地元後援会の堤会から選挙違反で180名余が逮捕、後に150名余が有罪となる。

1964年(昭和39年)4月24日内縁関係にあった石塚恒子(義明の母)を連れて熱海に向うため、13時15分発の準急「いでゆ号」に乗ろうと国鉄東京駅の地下道を急いでいた途中で昏倒し緊急入院。4月26日に心筋梗塞で死去。本葬は自民党葬として豊島園でとり行われ、約3500人が参列。東京オリンピックのために建設を計画した東京プリンスホテルの完成を見ることはできなかった。堤の没後、選挙地盤は山下元利が引き継いだ。

[家庭]
家庭での康次郎は亭主関白そのものだった。彼が出かけるときには、操親子をはじめ義明、使用人ら全員が正座をして見送らなければならなかったし、帰ってきたときには、これまた全員が三つ指をついて迎えなければならなかった。義明の返事や対応が気に入らなければ、すぐに暴力に及んだ、という。

[会社内]
一方で、会社内では社員を気遣い、家庭とは異なる一面を見せた。

戦後しばらく、大雪が降ると線路を切り替えるポイントが凍結して、電車がよく停まった。そうした事態を阻止するため、西武では社員が徹夜でポイントを監視していた。だからどんなに雪が降っても西武だけは電車が停まらなかった。康次郎は社員をねぎらい、頻繁に自宅に呼び、自ら作ったカレーを、来た社員に振る舞っていたというエピソードが伝えられている。

武蔵野鉄道が旧西武鉄道を吸収合併する際、通常社名は吸収する側の武蔵野鉄道になるが、「西武鉄道の従業員に合併されたという劣等感をあたえてはいけない」という堤康次郎の配慮で、社名が西武鉄道になった。

部下からは「自分たちの全てを安心して任せられる」指揮官であったことから、「社長」や「会長」、「親分」でもなく『大将』と呼ばれていた。

[評価]
世間の評価は真向から分かれている。不毛で価値の低い土地を買収し、開発、発展させた上で価値を創出するという抜群の手腕や先見の明が高く評価される一方で、その剛腕さや成功に対するやっかみ、妬みを強く受けていた。 評論家の大宅壮一は、噂と断ったうえでこんな話を紹介している。「関東大震災の直後、一家全滅したようなところの焼跡に、かたっぱしから「堤康次郎所有地」と書いた棒杭(ぼうぐい)を立てた。どこからも文句がでなければそのまま、出れば法廷でお抱えの弁護士をつかって、所有権を証明する物的証拠を示せ、と争った」という。軽井沢の大地主だった早大教授の市村今朝蔵は、広大な土地を争って、弁護士の費用などで、泣くに泣けぬ状態におとしいれられたという。

大宅は堤に「近江の知能犯」というレッテルを貼り、彼のやり方を徹底的に批判した。立石泰則は、堤のやり方は「とてもまともな実業家の姿とはいえないことだけは確かである」と評している。

ともあれ、堤康次郎の行動力や影響力はすさまじいものであることは確かであり、稀代の実業家であることは誰もが認めるところである。


軽井沢地区の土地買い占め、都内皇族からの土地購入などで、堤康次郎は悪どいやり方をしたと随分前に書籍で読んだ記憶がある。今からすると、只同然で土地を購入していたようだ。

この「1分間自己啓発」によると、康次郎の若い時の失敗は「儲けること」を第一に考えたため。まずは「世の中の役に立つ」ことを第一に、と発想を変えて商才が開花した。とあり、その後の軽井沢や箱根、皇族からの都内の土地購入などは只同然で購入しており、商才というより悪どさが目立った商いではないかと思う。

ただ若い時からの商才のすごさ、現在の西武鉄道や西武百貨店など、西部グループを作った実績は素晴らしいと思う。


【堤康次郎の名言 格言】
●祖父母の農業を手伝うかたわら、リン酸肥料の存在を知り、大阪の肥料会社に代理販売させてくれと頼みに行ったときを振り返っての発言
私は社長に面会を求めると「滋賀県ではこの効果のある肥料をまだ誰も使っていません。私に滋賀県の一手販売をやらせてください」と申し込んだ。私としては人のためにもなるし、自分も儲かるし、と内心大いに得意の着想だったわけである。すると阿部さんは私の申し出を聞いて、あいた口がふさがらないといった表情である。最も考えてみると、驚くのが当たり前、私は当時やっと15歳の子供であった。

●従業員を大切に扱う
私は従業員の生活は何としても安定させなければいけないと考えており、戦後はじめて賃上げ闘争があったとき、一挙に5倍引き上げを全部認めたこともある。食糧難時代には、食料確保にあらゆる努力もした。感謝と奉仕の信念で、全員が結ばれている。

●15歳のころ生まれて初めて商売をしたときのことを振り返っての発言
私は新商品の山を前に、お客のくるのを待った。ところが、お客様は一向に現れない。開店当日に売り切れるなどという予想は全く夢である。祖父の名前はかなり知られていたので、それまでも看板に拝借したのだが、全然効果はないのである。私の最初の事業である肥料商は、かくて一人のお客様も迎えないままに、ついに閉店のやむなきに至った。

●ストが起きなかった理由
私鉄でストがないのは西武ぐらいなもので、なぜストがないのかといって聞かれることもたびたびである。別に大した理由はない。私が西武鉄道から財産をつくっていないということ。人事に公平だということ。従業員と一緒に仕事をしているという気持ち。そんなことがあげられるのではなかろうか。

●様々な商売に手を出すも、ことごとく失敗したのちの発言
自分は生きている値打ちのない人間だとまで思った。思い悩んだ末に考え付いたのが「儲けようと考えたのがいけない」ということだった。自分は儲けなくてもいいから、この世のために少しでもできるだけのことをしようという奉仕の心だった。

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2016年02月11日

2016-2-10 河津桜が咲きました

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今日2月10日自宅の河津桜が咲きました。

まだ4~5輪だけの花です。

昨年の咲き始めは3月2日だったので、今年は3週間程早くなっています。

先月28日に咲き始めた梅は、8分咲き程度になっています。

今日は日差しはありましたが、風は冷たかったです。

もう少し暖かくなると、色々な花の咲くのが楽しみです。

【河津桜】

IMGP8259
 【梅】
IMGP8248
IMGP8252
 
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2016年01月29日

2016-1-28 梅の花が咲きました

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本日1月28日自宅の梅の花が咲きました。

昨年は2月20日頃気づいたので、今年は随分早い咲き始めです。

昨日古い竹を畑のそばで燃やしてましたが、気づきませんでした。

まだ数えれる程度の花数ですが、「もうすぐ春なんだな」と思いました。

梅が咲くと、その2~3週間後に河津桜やコブシが咲きます。

色々な花の咲くのが楽しみです。


【梅の花】
 IMGP8241
IMGP8245
IMGP8246

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2015年04月26日

031 飯塚克美「手ぶらの人」が最も多く持ち帰る

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昨日ダイヤモンド富士を
見に行ってきました。

一昨日PCのデスクトップで
「ダイヤモンド富士」の
アプリに気づき、
以前行った田貫湖だと
4月20日前後だから、
今頃はもうちょっと南側かな?
と思い、調べました。

ところが、
田貫湖のダイヤモンド富士が
4月25日(昨日)だとわかり、
急遽行くことにしました。

ダイヤモンド富士は、
日の出が富士山の頂上なので
6時ころ。
だから5時前に田貫湖に着けば
いい場所が確保できるかな、
と考えました。

夜中2時に家を出て、
3時間あれば高速を使わなくても
5時前に着けると。

4時45分頃予定通り到着。
でも逆さ富士が撮れる
一番下の段は20人ほどの人で、
もう一杯。

そこで少しずれたところを探し、
場所を確保。

少しづつ明るくなってきて、
5時55分頃日の出が始まり、
2分後くらいには
眩しすぎて
目を開けていられない状態に。

ダイヤモンド富士は
これで終了。

白糸の滝、薩埵(さった)峠、三保の松原
を見て、
由比の桜エビを食べて帰るつもり。

白糸の滝を見て、薩埵峠へ行ったが、
少し霞んでいて富士山は見えず。
これでは三保でも見えないだろうと
諦めた。

由比を通った時、
桜エビ祭り8時から、
とあったので行ってみることに。

しかし「浜のかきあげや」は
10時から。
車を売店の日陰へ移動し、
仮眠。

9時半頃「浜のかきあげや」は、
もう行列。
それでも10時前に開店し、
桜エビの「かき揚げ丼」と
先日テレビで見た「沖あがり」
を食べました。

かき揚げは桜エビが
一杯詰まってサクサクで絶品。
沖あがりは、桜エビと豆腐、
ニラをすき焼き味に煮たもので、
桜エビの味とニラの食感がよく、
これもうまい。

帰りもあまり渋滞もなく、
高速を使わずに帰ってきました。

由比漁協のHP
http://yuikou.jp/enjoy.html

【ダイヤモンド富士】
IMGP7689IMGP7691

DSCN3372DSCN3374

【白糸の滝】

IMGP7701

【薩埵峠】(富士山は見えず)

IMGP7702

【由比漁協のかき揚げ丼と沖あがり】

DSCN3376

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「手ぶらの人」が最も多く持ち帰る

アキア 飯塚克美

アキアは、平成7年(1995)の設立からわずか10ヶ月で、秋葉原の量販店で月間売上高1位の座を獲得したパソコンメーカーである。

アキアは、メーカーでありながら、工場を持たない。

これが大きな特徴である。自分の仕事は、商品の企画、デザイン、販売にしぼり、製造は内外メーカーに委託する。製品の検査や梱包も外注である。

社長の飯塚克美(かつみ)は、直販方式で大きく成長した米国のパソコンベンチャー企業デルコンピュータに、昭和62年(1987)に入社、やがて日本法人を軌道に乗せた。そして独立、アキアを創業した。

パソコンの新製品サイクルは短い。数ヶ月で、さらに高度の情報処理能力を持つ新仕様の商品が市場に投入される。消費者の風向きの変化を肌でつかんでいなければ、売れるパソコンは作れない。

変化を補足したら迅速に動く。それがパソコンメーカーの条件である。その意味で、意志決定の遅い大企業には、この分野は向いていないと飯塚は言う。

アキアの場合、市場の情報は社長である飯塚自身が動いてつかむ。工場を持たないアキアは身軽である。意志決定も変化への対応も早い。だから栄枯盛衰の激しいベンチャー企業の中でも抜群の急成長が可能だったのである。

飯塚が、この仕事のきっかけをつかんだのは、学生の時だった。

知人のアメリカ人宅で、米国の家電流通大手タンディのカタログをめくっていた。オーディオ製品のページで、見覚えのあるスピーカーに目が止まった。飯塚の実家はスピーカーのキャビネットを作っていたが、それがタンディのカタログに掲載されていたのである。まだ日本の家電製品が大量にアメリカに輸出される以前の話である。新鮮な驚きだった。タンディは、流通企業でありながら、製品を自社で企画し、製造は日本や東南アジアに委託していたのだ。

「なんておもしろいビジネスなんだろう」

日本ではいま規制緩和で、企業の相互乗り入れが盛んである。だが米国でははるか以前から、もっと軽やかな発想で会社が動いていたのである。

米国だけではない。台湾で、シンガポールで、起業家たちが斬新なビジネスを作り出している。大企業中心の日本の発想は、すでに落日なのかもしれないのである。(1分間自己啓発(成美文庫)より抜粋)

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飯塚克美(いいづかかつみ、1949年7月8日 - )は、元バイ・デザイン社長。元デルコンピュータ日本法人社長、アキア社長。

1949年7月8日 東京都で生まれる。
1972年 明治大学経営学部卒業。
1975年 米国ラジオシャック入社。バイヤーとしてソウル、香港、アメリカに勤務(25歳)。
1987年 米国デルコンピュータ入社。プロダクトマーケティング(アジア担当ディレクター)を担当(38歳)。
1988年 デルコンピュータ日本法人代表取締役社長に就任(39歳)。
1995年 アキアを設立し、代表取締役社長に就任(46歳)。
2001年 アキア代表取締役社長から退任(52歳)。
2003年6月16日 バイ・デザインを設立し、代表取締役社長に就任(54歳)。

デルでの経験を元に、アキアを立ち上げ、低価格で優れたデザインのPCを、ファブレスで生産し、ダイレクトマーケティングで販売するというビジネスモデルを導入。一時期は年120億円を売り上げた。しかし、Macintosh互換機がアップル社の方針転換で販売できなくなったことをきっかけに経営が行き詰まり、カシオ計算機の傘下で立て直しを図ったが、2001年に社長から退任。

2003年には、バイ・デザインを設立し、薄型液晶テレビをアキアと同様のファブレス・ダイレクトマーケティングのビジネスモデルで販売する事業で再起を図った。バイ・デザインは、2006年には73億円を売り上げたが、薄型液晶テレビ市場の急速な伸長と低価格化が進んだことで競争が激化、資金繰りが困難となり、2011年1月26日に破産した。


●アキア
株式会社アキア(Akia Co.,Ltd.)は、液晶テレビの製造・販売を行う日本の企業。本社所在地は千葉県長生郡長柄町。ブランド名はアルファベットの小文字のakia。
かつてはパーソナルコンピュータの製造・販売を行っており、本社は東京都渋谷区にあった。
その後、2009年に現在の「株式会社アキア」として再創業された。

概要
デル・コンピュータ日本法人社長だった飯塚克美が1995年9月18日「アキア株式会社」を創業。"akia"の最初の"a"は"Asian Pasific"の"a"、"ki"は飯塚克美のイニシャル、最後の"a"は"America"の"a"を意味する。飯塚を中心として、アジアとアメリカを舞台に事業展開するという意味が込められている。

デルを参考にファブレス(委託生産)で生産した製品をダイレクトマーケティングで販売するというビジネスモデルを導入し、デザイン性に優れたノートパソコン"Tornado"や当時珍しかった省スペースパソコンと液晶ディスプレイを組み合わせたデスクトップ機"MicroBook"を低価格で販売し、最初の製品発売から1年間で売り上げ100億円を超す成功を収めた。

1997年にはMacintosh互換機"MicroBook Power"を発売するが、同年のアップルの方針転換によりMac OSの供給を絶たれたことなどにより資金繰りが悪化。秋葉原や大阪日本橋に直営店を出店するなどしたものの業績は回復せず、1999年2月にカシオ計算機と共同で新会社を設立してカシオの傘下に入った。飯塚は2001年に社長を退任。

しかし、その後も業績はふるわず、2003年10月1日にはパーソナル・コンピュータの保守サービス業務を有限会社インターに引き継ぐなど、事実上事業は消滅した。2007年当時では、アキアのウェブサイトも保守を引き継いだ有限会社インターのウェブサイトも閉鎖されていた。

再創業
2004年に薄型テレビメーカーのバイ・デザインを設立し社長を務めた飯塚克美は、2006年のインタビューでアキア・ブランドの復活を考えていると語っていた。

2009年2月6日に株式会社アキアが再び設立された。同年10月29日、直販サイトにて液晶テレビの予約受付を開始、同年12月18日、直販のECサイト「akia-direct」がオープンした。PCメーカー時代と同じくファブレスと直販を基本方針としている。日立製作所やバイ・デザインの技術者だった多治見淑高が社長を務めており、飯塚と新生アキアの関係は明らかでないが、「akia-direct」では飯塚が社長を務めるバイ・デザインの製品も販売されている。

2010年より家電量販店ラオックスでアキアとバイ・デザインの液晶テレビの販売を開始。アキア製品を取り扱う量販店は同社が唯一となる。
なお、バイ・デザインは2011年に破産しており、同社が過去に販売したテレビについてはアキアがリサイクルを引き受けている。


私も情報処理業務に携わっていたので、90年代"akia"が提供した低価格PCは魅力的だった。Windows95が出た頃で、まだ個人で買うには高いという印象があった。
それが"akia"の低価格PCが出てきてから、他社も追随してPCの価格が下がりだし、インターネットやメールが使えるようになって、会社でも1人1台の時代が来て、個人でも購入できるようになった。
通信回線はまだまだ高価格で、自宅では公衆(電話)回線を使っていたと思います。"akia"はPCの普及を促進した、低価格化の先駆けをした会社として覚えている。


【飯塚克美の名言 格言】
●視野を広げて交渉に柔軟に対応する
数か月後、部材や生産コストの低減が予想できれば、相手の値引きを飲むこともあります。たとえ、その月が赤字だとしても、いずれ挽回できるわけですから。

●無理な条件を突き付けてくる大手よりも、対等なパートナーとなってくれる取引先を優先する
大手だからといって、こちらが頭を下げて商品を置いてもらうことは、相手の条件、要求を丸呑みすることになる。我々を理解してくれるパートナーと対等な立場で取引したかったんです。

●はぐらかす相手には直球で接する
はぐらかす相手には婉曲な言い方は一切しません。イエスかノーかでビシッと答える。そうすれば、相手も本気にならざるを得ません。

●外注先には厳しく
はぐらかされてばかりではいくら話し合っても意味がありません。デシジョンメーカー(決定権を持つ人)である社長や工場長と直接交渉しました。そこで伝えた要求のハードルは、何を言われても下げませんでした。納期に間に合わないようなら空輸させ、ペナルティとして高額な輸送料を請求しました。納期の遅れやいい加減なデザインを一度でも許してしまえば、同じトラブルはまた起きてしまう。お互いに痛い思いをしながら理解していったんです。

●近い業種の商品需要からヒントを得る
パソコン業界で仕事をしていたとき、パソコンのモニターが一斉に液晶パネルへ移行する過程を目の当たりにしました。テレビにもパソコンと同じことが起きるという確信があり、当社の事業の将来性については、そこを訴えました。

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2015年03月31日

030 日比翁助「よいものを多く見る、これにまさる発想力開発はない」

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昨日「桜満開」のニュースを聞き、
自宅からだと
「子供の国」か「三ツ池公園」が
比較的近い。

ネットで「三ツ池公園」を調べ、
満開、とのこと。

早速午前中、行ってきました。

途中渋滞してましたが、
1時間ほどで到着。

名前の通り、3つの池を中心に
その周りや丘の上に桜などの
木々が植えられて、
桜や桃などが花を咲かせていました。

桜はソメイヨシノを始め、
白い花が多いです。

その中で目立つのが
朱色の横浜緋桜(ヒザクラ)。

品種は知らなかったのですが、
先日テレビで横浜三ツ池公園には
珍しい横浜緋桜がある、と聞き、
緋桜ってどれ?と、
木の名札を見ながら回りました。

天気もよく、暖かくて、
気持ちのいい時間を過ごしました。

【桜の状況】
IMGP7396IMGP7391
【横浜緋桜】
IMGP7388IMGP7418

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よいものを多く見る、これにまさる発想力開発はない

三越百貨店 日比翁助

三越百貨店が、前身の三井呉服店から一新、日本初のデパートとして開店したのは、明治41年(1908)のことだった。
さまざまな商品が豊富に並べられた店内は、人々の目に新しく、「今日は帝劇、明日は三越」という広告コピーもきわめて鮮烈だった。はじめて見る「百貨店」に、人々は興奮した。

この陣頭指揮をとったのが日比翁助(ひびおうすけ)である。三井銀行から建て直しの要請を受けて明治31年(1898)に38歳で三井呉服店に移り、旧態依然の経営でいきづまりを見せていたしにせを、思い切った組織改革で立ち直らせた日比の総決算が、三越百貨店のオープンだった。

日比は福岡県久留米市で小学校教員をしていたが、福沢諭吉の著作に感激し、20歳の時に上京して慶應義塾に入った。海軍天文台に勤めたのち諭吉の推薦で商社に転職、その後、三井銀行に入り、不振だった和歌山支店の再建などに手腕を発揮していた。

日比は三井呉服店に入ると、店員が畳に座って商品を取り出して客と対面で売っていたのを、商品陳列という新形式に変えるなど、画期的な経営手法で組織を刷新した。

そして再生した三井呉服店の経営が軌道に乗ると、ヨーロッパへ視察の旅に出る。各国のデパートから、経営のアイデアを取り入れようとしたのだ。

ロンドンでは、世界的に有名な高級百貨店ハロッズが、日比を魅了した。

商品のディスプレイ、店員の接客など、どれをとっても一流で、日比は数日間通いつめて、館内すべてを観察した。営業担当重役から話を聞き出し、接客マニュアルを日本に持ち帰った。

日比がヨーロッパで吸収した新しいセンスが、帰国してまもなくオープンさせた三越百貨店に生かされた。歴史に残る広告コピーも、視察の間に広告宣伝の重要性を強く認識したからこそ生まれたものだ。

日比はまた、当時は低く見られた下足番という仕事に対する社員の意識を変革することもした。「お客様と最初に接するのが、下足取扱の仕事だ。その印象が、店の第一印象となる。この仕事のいかんが、商売繁盛の鍵である」と説いたのだ。

古く重厚な大組織に新風を吹き込むのは難しい。しかし突破口は必ず複数ある。日比のやり方は、現代にも応用できるそのヒントである。(1分間自己啓発(成美文庫)より抜粋)

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日比翁助(ひびおうすけ、1860年(万延元年)5月8日 - 1931年(昭和6年)2月22日)は、明治時代から昭和前期にかけての経営者。三越の経営改革を進め、日本初の百貨店をつくった人物。号は美勲。

幕末の1860年(万延元年)に筑後国久留米藩士・竹井安太郎(馬廻格・高良山別荘臨番)の次男として生まれる。海軍軍人になることを志し、竹崎氏に漢学を、剣術を藩主指南役・津田氏に、南画を同藩の狩野氏に学んだ。1879年(明治12年)日比家の養嗣子になった事で転向する。

剣も相当の腕だったが、久留米藩御納戸役時代に福沢論吉の著作を読んで傾倒し、上京して1884年(明治17年)、慶應義塾を卒業。初め海軍天文台に勤め、外国資本のモリスン商会などを経て、1896年(明治29年) 三井銀行に入社した。1898年(明治31年)、中上川彦次郎の依頼で三井呉服店に入り、高橋義雄と共に改革を進めた。

1904年(明治37年)、株式会社三越呉服店が設立され、益田孝が代表発起人、日比が専務取締役に就任。このときに「デパートメントストア宣言」を行った。巌谷小波、新渡戸稲造、黒田清輝、森鴎外など著名文化人による流行研究会「流行会」を組織。

1906年(明治39年)、欧米を視察し、ロンドンのハロッズ百貨店の経営に深い感銘を受けた。

1913年(大正2年)に会長に就任。翌1914年(大正3年)、三越はルネッサンス様式の新店舗を建設した。「今日は帝劇、明日は三越」というキャッチフレーズもこの頃に作られたものである。

1918年(大正7年)に取締役を退任した。

1931年(昭和6年)、患っていた神経衰弱との闘病の末、息を引き取る。享年72。墓所は渋谷区広尾瑞泉寺祥雲寺。


日比翁助が、明治37年(1904)12月17日、「デパートメントストア宣言」を新聞広告で打ち上げたとき、「デパートメントストア」がどんなものかわかっている人はほとんどいなかった。「百貨店」と呼んだのは、大正時代の雑誌『商業界』の主幹、桑谷定逸が初めてだという。しかも、「株式会社三越呉服店」を創業するに当たって、三井家からは人材や資本の提供は受けられず、ほとんどゼロからの出発であった。

三越呉服店は越後屋呉服店の継承・発展ではないかと思われがちだが、呉服店からデパートメントストアに生まれ変わるにはひとつの飛躍が必要であった。それを、旧久留米藩士の次男で、「国家有為の人たれ」と説いた江崎済の北ぜい(さんずいに内)義塾で漢学を、慶應義塾で「士魂商才」を学んだ「サムライ」が成し遂げたというのが興味深い。

名宣伝部長と呼ばれた浜田四郎は、のちに、翁助の「三越革命」について、「デパートの開祖 日比翁助」(『オール生活』昭和27年4月号)と題する文章の中で次のように述べたという。

「具体的にいえば、三百年の伝統と旧習に凝り固まっていた越後屋呉服店という一大老舗を、根本的にたたき直して、近代的な百貨店組織に改められたことです。・・・・・・

たとえば、現銀取引掛け値なしという商法は越後屋開店当時からの特色であったが、これを全店総陳列の正札売りに改めたのも日比さん、元禄模様その他の考案で、流行意匠の総元締めを企画したのも日比さん、寄せ切れ・見切り反物大売出し、実用百貨のバーゲンセール、現代名画の陳列会、勧業博覧会とのタイアップ、レジスターの使用、メッセンジャーボーイの活用等々、何から何まで日比さんの仕事は、つまり『先鞭』ということに尽きます。

それに日本で初めて女子店員を採用したのも、子ども寄宿舎を設けて教育と厚生施設の実現に努めたのも、さらに後年各方面で行われだしたPRを始めたのも、もう四十余年前にちゃんと日比さんが『知恵の大出し』で手をつけていました。」

それ以外にも、ボーナス制度の創設、従業員持ち株制、月二回の休暇の制度化など、翁助のアイデアで実現したものがたくさんあることに気づく。

翁助は、明治39年(1906)4月4日、欧米のデパートの視察に旅立った。イギリスでハロッズを見たとき、まさに自分が理想とするような百貨店だと感激し、何度も足を運んだ。

当時のハロッズ総帥リチャード・バービッジともやがて意気投合し、バービッジから百貨店のノウハウを丁寧に教えられたという。

翁助の努力は、やがて「今日は帝劇、明日は三越」という名コピーに結実していくが、デパートメントストアなるものがなかった日本にひとつの「ビジネスモデル」を構築した功績は大きいだろう。

だが、おそらくは長年の過労とストレスの蓄積によって、翁助は50歳を前にした頃から「神経衰弱」(当時の病名で今は使われない。翁助の場合は、頭痛から始まったが、症状をみると、働き過ぎによる抑鬱状態だったと思われる)を患い、亡くなるまでこの病気との闘いが続いた。まさに「企業戦士」であったと言えよう。


日比さんは、色々なアイデアを絞り出して、伝統と旧習の越後屋呉服店という一大老舗を根本的にたたき直して、近代的な百貨店組織に改革した。

高橋義雄が越後屋改革のためには翁介が必要だと誘った際、なかなか了解を得られなかった。しかし「これからの商人像は福沢先生から教わった『士魂商才』だ。われわれが日本の新しい商業人と商業ビジネスを創るんだ」と説得を続け、その意に賛同し入店した。

その後、日本のすべての社会は、軍事でも教育でも工業でも、みな欧米先進にならい日進月歩と改良されているが、小売業だけはこの進歩から取り残され、旧幕の遺風のままである。これは大いに改革しなくてはならん、と気付いた。それからは宣伝広告の重視、PR誌の発行、通販の新設、新柄研究会、店員への簿記学導入など、次々に改革を進めていった。もともと「三越」は越後屋時代最下級の「のれん」であったが、翁介の改革は「三越のブランディング」の力を高めると共に、従業員の意識改革やモラル向上までも狙った「一石二鳥の策」だった。旧態依然とした大組織改革は難しいが、いろいろな角度から一つずつ改革を進め、新風を吹き込むことにより、大きな改革の波になっていくのだろう。と思う。


【語録】
公衆の利益を本位とする
「三越呉服店は、唯儲ける丈(だけ)ではいかぬ。儲ける傍(かたわ)ら、客の便利を図らねばならぬ。また儲けて客の便利を図る丈でもいかぬ、儲けて客の便利を図る傍ら、永遠的国家的観念を以て経営して、国家に貢献する所がなければならぬ」

●「デパートメントストアは、あくまでも公衆の利益を本位とせねばならない。もし私利的デパートメントストアありとせば、それは自然の力によって、打倒されるべき運命を有するものである」

●「これからは御客に親切を尽くすことが一番大切である。親切という事は口先だけの親切ではいかぬ。腹のどん底から出た、命がけの親切でなくてはいけませぬ」

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2015年02月22日

029 鈴木慶「最悪なのは「戦況ばかり見てパンチを出さない挑戦者」

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昨日ようやく
自宅の梅の花が咲きました。
まだまだ寒いと思ってましたが、
梅が咲いたくらいだから
もう暖かくなるかな、
と思った昨日今日です。

そばに3年前に植えた
河津桜がもうすぐ咲きそうに
蕾をふくらせています。

ただ日曜日は雨で寒そうです。
咲いた花はどうなるのかな?

【梅ノ木】
IMGP6832
【梅の花】 
IMGP6848
【河津桜の蕾】
 IMGP6859
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最悪なのは「戦況ばかり見てパンチを出さない挑戦者」

ソフマップ 鈴木慶

電気店最大の激戦区である東京秋葉原の一角に、パソコン専門店ソフマップが旗揚げしたのは、昭和58年(1983)であった。

数々の斬新な販売アイデアで、ソフマップを急成長させた社長の鈴木慶(けい)は、「つねに、人と違う新しいビジネスを考えてきた」と語るように、徹底した差別化戦術の開拓者である。

パソコン販売で、まず勝負の鍵になるのは、価格である。もちろんソフマップも競合する安売りパソコン店より「1円でも安く」することにしのぎを削った。

しかし、ソフマップが伸びた理由は価格の面だけではない。多くの既存店が値引きに汲々(きゅうきゅう)としていたとき、次々と独自のサービスをつけたのである。

まず、自前のマニュアル書を作って提供した。キャッチコピーは「もうこれ以上やさしく書けない」。パソコン付属のマニュアル書は、特に初心者にはひどくわかりにくい。ソフマップのサービスは好感度満点だった。
 
新品の保証期間を思い切って5年に延長したのも好評を博した。普通はメーカーの保証期間1年のみだからである。

「店員とジャンケンをして、お客さんが勝ったら、たとえば1円でパソコンを売るといったこともした。当時は、お客さんが店を取り巻いた。公正取引委員会から問い合わせがあったが、私は『消費者のためにやっていることだ』と、胸を張って説明した」

ソフマップに代表される新興の安売りパソコン店を、昔からの秋葉原の商店たちは、アウトサイダーと呼んでいる。

しにせのつわ者が軒を並べる秋葉原に、外から新しく参入しようとすれば、ほかと同じことをしていては勝ち目はない。「会社が成長するよう、たえず仕掛けづくりを考えていかねばならない。他社にはできないこと、つまり差別化だ」。そうしなければ「戦況ばかり見てパンチを出さない挑戦者」として倒されてしまう。ソフマップは、徹底した差別化戦術で生き残り、店舗を拡大している。しかし、そうなればなったで、たちまち、もっと新しい勢力に挑戦される立場に立たされるのが激戦区の宿命である。
 
鈴木は、ソフトの開発にも手を伸ばしている。

ダイエーなど家電販売の大手企業がパソコン販売に本格参入するなか、一瞬たりとも実績の上にあぐらをかいているわけにはいかないのである。(1分間自己啓発(成美文庫)より抜粋)


鈴木慶(すずきけい、1959年11月23日 - )はソフマップの創業者。

東京都府中市出身。実家は旅行会社を経営していた。幼少期に埼玉県に引っ越し、埼玉県立菖蒲高等学校卒業後に実家とは別の旅行会社の社員となる。営業の他に旅行計画の作成から添乗員までこなしていたが、努力しても大学卒業後に入ってくる社員より待遇が低い事に不満を持ち、起業を決意する。幾つかの副業などを通じて起業の可能性を探ったが、当初は全く上手くいかなかった。

ソフマップ創業
1982年、孫正義や西和彦についての記事を読んだ事を契機にパソコン関連企業の設立を思い立ち、パソコンソフトのレンタル事業を行う有限会社ソフマップを創業する。マンションの一室で運営した事から客入りが悪く、かといって広告を出す費用もなく苦しい経営を強いられた。転機はレンタル事業の著作権問題についての新聞取材を受けた事で、この取材で結果として知名度が上がり顧客が殺到する事態となった。だが著作権上の問題もクローズアップされた事、また競合店も次々と現れた事から程なく業種転換を考え、1984年にパソコン本体の買取・販売業に転身した。翌年には有限会社から株式会社に組織変更を行った。

本拠地とした秋葉原の裏通りに林立する現金問屋から商品を仕入れ、小企業でありながら豊富な品揃えを実現し、更に商品展示を行わない「箱売り」手法による廉価販売もあって急速に事業を拡大した。大阪の日本橋にも進出するなど積極的な店舗展開を経て、創業から10年間でソフマップを年商1000億の大企業へと押し上げた。その後も東京・大阪などの大都市圏以外にも郊外店舗の建設を進める。外部資本の導入も検討され、総合商社の丸紅による資本参加を取り付けた。1999年にはITバブルの影響で過去最高の増収増益を記録し、株式上場も計画された。

2000年、社長を兼任していた情報技術企業であるドリームテクノロジーズ株式会社(現トライアイズ)の経営に専念する事を理由として、18年間務めてきたソフマップ代表取締役社長を退任した。

退任後
2001年、ドリームテクノロジーズをソフマップと同じく株式上場させるなど積極的な経営を進めていたが、自身が技術者ではない事から経営に限界を感じ、2003年に同社社長からも退任した。インターネットやパソコン関連企業から離れ、タピオカドリンクの販売業や室内遊園地などに進出したが、ソフマップの様に業績を上げる事業にはならなかった。再度、買取・販売業に立ち返る事を決意して以前から経営していたカメラ販売会社マップカメラなどを統合、シュッピン株式会社を設立した。筆記具、カメラ、ロードバイク、時計の4種類に絞った販売業を展開し、2012年にマザーズへ株式上場した。同社の株式上場により、ソフマップ(現在はビックカメラ子会社として未上場)、ドリームテクノロジーズ、シュッピンと3つの企業の上場に関わった事になる。

【ソフマップの歴史】
「箱売り」からの躍進
ハードウェア販売を開始した当初は、秋葉原と大阪・日本橋の小型商業ビルに居を構え、商品展示は行わずその分廉価に販売する「箱売り」業態を得意としていた。そのため1986年より商品価格をリスト掲載したフリーペーパーソフマップタイムズ(後のソフマップワールド、有料化後はソフマップワールドハイパー→ソフマップドットマガジン→ソフマップデジタルバイヤーズ。2005年3月号で休刊)を大量に発行し、落下保証などといった「新品5年保証」「中古3年保証」といった独自の保証制度をいち早く開始し、創業時からの得意分野であるパソコン中古買い取りの3本柱で他社との差別化を図っていた。

その後Windows 95発売に端を発するパソコンブームを見越し、大幅に増床して初心者向けの展示販売に力を入れることとなり、1994年の秋葉原1号店シカゴ(ChicagoはWindows 95の開発呼称)、大宮を皮切りに大型店舗GIGA STORE店の出店を加速する一方、東京八重洲・池袋などではコンビニ業も行うなどの多角化経営を行った。特に秋葉原では1993年頃から当時の家電不況で廃業に追い込まれた家電量販店の店舗跡地に積極的に出店、それまで裏通りに多く展開していた小規模店舗の統合を行っていった。

大阪地区にも進出し、ほぼ同一の営業形態をとる地元資本のスタンバイと激しい販売合戦を繰り拡げた。電気街の家電量販店が勢いを落としていった当時、ソフマップは新たな電気街の雄として注目された。
 
競争激化
ところが、1990年代も半ばに入ると、パソコンの価格下落、中古品の商品サイクル短縮による流通性や収益性の低下、家庭用ゲームの販売不振などの要因が重なり、売り上げの伸びが鈍化し、停滞から凋落へ辿っていく。主力の東京の秋葉原・大阪の日本橋両地区は各フロアの狭い店舗が多い上に近隣同業者との競合が激しく、地方の大型店舗ではフロアが広すぎて持て余して非効率になるなど、店舗面の問題も足を引っ張る要因となった。郊外部に進出してくる大型家電量販店への対抗も迫られ、初心者向けの展示販売に切り換えたものの、雑多な陳列、清掃の行き届かない店内、話しかけにくい店員など、「箱売り」当時のマニア向けなスタイルからの脱却は遅々として進まず、他量販店と比較しマイナスイメージを抱え込むことになった。

また、各店舗内を見ても店員・スタッフは配置されていたものの、そのほとんどがアルバイトや契約社員といった非正規雇用で、接客態度や商品知識もバラつき、適性にも問題があった。そして従業員の入れ替わりも激しく、長期的なスキルアップを図る事もできなかった。これらの要素が重なり続けた結果、1990年代中頃には「ソフマップはバイト(あるいは社員)を使い潰す」などという風評や、社内人事派閥抗争などの噂が立ち、人材確保にも苦しむ様になった。

その結果、同業他社と比較しサービス面・技術面での見劣りが目立つようになっていった。また、ソフマップカードの導入によるポイント付与もあって、「箱売り」当時からの激安というイメージもいつしか失われ、業界の中でも中途半端かつどこか浮いた存在になってしまった。

丸紅傘下へ
1996年頃、ソフマップの経営危機についての根拠のない噂が流れ、一部銀行から融資の再審査が相次ぐ様になった。また取引先からも条件の見直しを求める企業が現れ始めた。

1997年夏、「ソフマップは外部資本導入に失敗し、9月16日分決済の目処が立たず、倒産する見込み」という内容のチェーンメールが出回り、顧客が溜め込んでいた『ルピー(ソフマップ付与のポイント)』を取り付ける騒ぎが発生した。この騒動は、事実無根と公表され収束した。

最終的に総合商社の丸紅による資本参加を取り付けると一転して経営危機についての噂は終息し、鈴木は「大企業の暖簾の力」を痛感したという。再びコアユーザーに向けた店づくりへの回帰を目指した。

ビックカメラとの提携
丸紅傘下での業績改善は遅々とした状況が続き、2005年に丸紅がソフマップ株式の一部を家電量販店のビックカメラへ譲渡したため、今度はビックカメラと提携して業績改善に取り組むことになった。

2010年1月29日、ビックカメラは、ソフマップに対して、既存株主に200株あたりビックカメラ株1株を割り当てる株式交換を実行し、完全子会社化。ソフマップは、先立つ2010年1月26日をもって上場廃止となった。2012年3月1日には、小売部門を分割して株式会社ソフマップを設立、残る店舗不動産管理等の部門(旧株式会社ソフマップ)はビックカメラに吸収合併された。


ソフマップは競合が激しいパソコン専門店として創業された。生き残るには競合店との差別化が必要である。
1 自前のマニュアルを提供
2 パソコンの保証期間を新品5年、中古3年とした
3 「箱売り」で廉価販売
これらの施策により創業10年で年商1,000億円の大企業に発展した。

パソコンのマニュアルは厚くて、分かりづらく、どこを見たら書いてあるのか分からない。簡単なマニュアルは大助かりである。保証期間も一般的に1年ですが、ディスク障害や電源が入らないなど、3~4年してから発生するので保証期間が長いと凄く安心できる。またパソコンは現物が無くてもカタログやその中の仕様・性能・装備品などで把握でき、同じパソコンなら安い方が助かる。実際今使ってるパソコンやプリンターは通販で購入している。
こうして鈴木慶は競合店との差別化により生き残り、挑戦者でありえた。

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2015年01月07日

028 水野利八「人とともに伸びる」という度量があるか?

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正月も6日を過ぎましたが、今年の目標を決め切れていません。やりたいことは書き出しましたが、やりたいと思っていたことで思い出せないことがあり、そんな状態で留まっています。
 
昨夜簡単にできそうな料理を作りました。「メンマと海老の炒めもの」です。年末に冷凍の海老は買ってましたが、作ろうとしてたことを忘れていました。

続きは編集後記で。

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「人とともに伸びる」という度量があるか?

ミズノ 水野利八

かつて企業メセナ(社会的貢献活動)が喧伝(けんでん)された。その根底には、社会に貢献することが長期的には企業の利益につながるという「啓発された自己利益」の考え方がある。

今はメセナのような遠まわりのやり方は衰え、例えばスポーツ大会の名称に露骨に企業名を冠した冠大会や、ユニフォームにロゴマークを入れたりする方法が全盛だ。

これも共存共栄の一方法なのであろうが、純粋にスポーツにほれこみ、その振興に尽力し、スポーツの隆盛とともに事業を発展させた人物もいる。

ミズノの創業者水野利八(りはち)がそうである。

水野とスポーツとの運命的な出会いは、明治36年(1903)である。京都の繊維問屋に奉公していた水野は、旧制第三高等学校野球部と神戸の外国人クリケットクラブとの親善野球試合を観戦した。そこで、泥まみれになりながら生き生きと走り回る若者たちの姿に魅了されてしまう。

翌年、水野は奉公先を辞めて、弟利三とともに水野兄弟商会を創業する。スタートこそ洋品雑貨を扱う商店だったが、やがて美津濃商店(のちのミズノ)と改称し、運動服のオーダーメイドや運動用具の生産を始めた。

事業が軌道に乗ると、水野は大正2年(1913)実業団庭球野球大会、関西学生連合野球大会を相ついで開催する。

大正4年には、朝日新聞社から要請されて、全国中等学校野球大会を開催した。現在の全国高校野球選手権大会、夏の甲子園大会である。

ほかにもテニスやスキー、ゴルフなど、水野が普及に努めたスポーツは数知れない。いま日本で盛んなスポーツのほとんどに貢献したといっても過言ではない。

スポーツが隆盛すれば、運動用品の需要が伸びる。水野の商品は、スポーツの振興とともに普及していった。豊かなマーケットに参入する企業は多いが、水野は市場そのものを大きく育て上げたのである。

水野を純粋だというのは、たとえば物質のない戦中から終戦直後、作れば売れるはずのスポーツ用品を品質へのこだわりから作らなかったからだ。戦前は、国内スポーツメーカーの保護を目的に外国製品に高い関税をかけようとした政府の政策に、競争力を弱め品質を落とすという認識から反対してもいる。

そういう見識が、良質の市場を育てたのである。(1分間自己啓発(成美文庫)より抜粋)


水野利八(みずのりはち 明治17年(1884)5月15日 - 昭和45年(1970)3月9日)はミズノ創業者。
岐阜県大垣市に生まれる。興文小高等科中退。9歳のときに棟梁をしていた父が亡くなり、大阪・京都へ丁稚奉公へ出た。

1903年(明治36年)に京都・三高野球クラブの試合を見て、野球の魅力に惹かれ運動用品の商売を志す。
1906年(明治39年)に弟の水野利三と大阪市北区で水野兄弟商会を創業。当初は運動服を扱っていた。
1913年(大正2年)からは野球用のグラブ、ボールの製造を始めた。
1916年(大正5年)に全国統一の標準球を完成。西洋的なスポーツの普及とともに事業を成長させた。昭和初期は中国大陸にも進出。
1942年(昭和17年)に社名を美津濃に改称し社長に就任。
戦後はスポーツを通じた復興、青少年の育成にも尽力した。
1964年(昭和39年)に美津濃全従業員に株を25株ずつ贈与。
1969年(昭和44年)に会長に就任。
1970年(昭和45年)死去。
1971年(昭和46年)に野球殿堂入り。

水野利八は現在スポ-ツ用品製造で世界一を誇る美津濃株式会社の創立者です。利八は明治17年(1884)、美濃(岐阜県)大垣に、大工水野利八の長男として生まれました。幼名は仁吉、快活で、故郷の山野を駆け回って、思い切り遊びます。学校の帰り、遊びに夢中になり、鞄をお稲荷さんに忘れてくる事などはしょっちゅうでした。
この快活な幼少期体験は、彼の将来の方向を決定します。しかし当時の仁吉には、自らがたどるその運命にはもちろん気がつきません。父親利八は代々大垣藩御用を承る大工の棟梁で、その家は間口24mという広大なものでした。仁吉7歳の時、濃尾大地震に襲われます。死者は総計7200名、仁吉の家は崩壊します。翌年父親は過労で死去します。12歳、仁吉は高等小学校を自らの意志で中退し、大阪の商家に奉公に出ます。

奉公先は始め、道修町の薬問屋である川崎屋です。仕事の傍ら仁吉はよく勉強をしました。「実業の日本」などの経営者向けの雑誌なども読みます。始めから立派な経営者になろうという、強い決意を持っていました。14歳の時には、すでに仕入れも任されていたようです。

16歳、京都の小堀商店という呉服屋に奉公します。すでに番頭でした。川崎屋から推慮されたようです。三井呉服店(三越の前身)と取引して、名を上げます。京都時代に仁吉は二つの運命的体験をします。19歳、仕事の帰路、旧制三高(現京都大学)のグラウンドで学生達が野球をしているのを見て、野球の虜になります。以後仕事の合間をぬって、時には仕事時間を節約して、三高のグラウンドに出かけます。もう一つの出会いは、小堀家から娘のすがとの養子縁組を提案された事です。仁吉は、水野の家名を捨てる気がなかったので、一応この縁談は断ります。

21歳、日露戦争に応召し朝鮮に渡ります。すぐ終戦になりましたが、長年の労苦のせいか、彼は肺尖カタルにかかり内地の陸軍病院で5ヶ月加療します。この間も寸刻を惜しんで、経済、算数、地理、新聞などを丹念に勉強します。彼はメモ魔でした。気がついたことはすぐメモします。それを参考にして発想し、また後年は社員に指示を出しました。メモの内容を忘れないようにと、自身作成したメモ複写機を利用します。さすが大工の棟梁の息子、血は争えません。仁吉の仕事振りには、職人的なところが濃厚にあります。

退院して、仁吉は弟の利三と二人で、大阪市北区芝田町に、水野兄弟商会を作ります。クツシタ、ハンカチ、タオル、シャツ、半ズボン、などを扱う洋品店です。自身が長い入院生活を送っているので、知り合いのスポ-ツマンに健康法を聞くうちに、彼らから運動用の服装のオ-ダ-を頼まれます。既製品では都合の悪い事が多いのです。水野の製品はスポ-ツマンには大好評でした。これが水野がスポ-ツ用品を作るきっかけになりました。

経営が順調に行き、明治43年36歳、店を梅田新道に移します。この時店名を。「水野」から「美津濃」へと変えます。「水野」に故郷の国名「美濃」を掛け合わせたタイトルです。大学対抗の野球大会で、自ら作成した赤シャツを着て応援します。話題になりました。翌年大阪周辺の野球好きを集めて、大阪実業野球大会を行います。話題になりました。そして利三の提案で東京に支店を出します。

仁吉の野球好きは昂進します。大正2年(1913)彼は、市岡中学(現市岡高校)・早稲田大学出身の佐伯達夫の協力を得て、大阪府豊中市の新しいグラウンドで、関西学生連合野球大会を開催します。43チ-ム出場しました。野球帽を被り羽織袴を着用している審判の写真を見るとほほえましくなります。2年後朝日新聞の申し入れを仁吉は受け入れ、主催は朝日新聞社になります。こうして全国中学優勝野球大会ができました。場所は同じく豊中のグラウンド、大正13年に甲子園に場所を移します。現在の全国高校野球大会です。一方大正6年には、関西学生連合野球大会を主宰します。場所は西宮市の鳴尾です。これが発展して春の選抜高校野球大会になります。こうなると仁吉は野球中毒のようなものです。

水野利八は、旧三校の野球試合に魅せられ、その後スポーツ関係の商品を提供し、春夏の全国高校野球大会(甲子園)に繋がる大会を始め、アマチュアの大会を開催するなどスポーツ振興に尽力した。スポーツ用品を販売する事も大事だが、スポーツの裾野を拡大し、スポーツ人口を増やすことが販売の拡大に繋がると考えた。そして色々なスポーツ大会を開催し、スポーツの隆盛と共にミズノは栄え、発展してきた。

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【編集後記】

昨日作った調理の内容です。
みなさんも作られてはいかがでしょうか。

【メンマと海老の炒めもの】
(1)むきえび(300g)は背わたを取り、塩、片栗粉、水の各適量を加えてもみ、水で洗って水分を取る。下味として、塩(小さじ1/4)、こしょう(適量)、酒(小さじ1/2)を混ぜてから、片栗粉(小さじ1)を加える。
(2)メンマ(40g)は粗みじんに切る。
(3)鍋に油適量を熱して、えびを強火で炒めて取り出す。
(4)メンマ、しょうが(小さじ2、みじん切り)を入れて弱火で炒めて香りを出す。香りが出てきたら酒(小さじ2)、水(大さじ3)を加え強火で煮立てる。
(5)えびを戻し入れ、青ねぎ(1本、小口切り)、ごま油(小さじ1/2)を加えて炒め合わせる。
⇒私の場合、作る1時間ほど前にむきえびを冷凍庫から出したため、塩水で解凍しました。量もむきえび200gほど、メンマは30g程度。メンマは適度な塩加減だったが、えびだけがちょっとしょっぱいとのこと。解凍に少し濃いめの塩水を使ったため。ただえびはぷりぷりしていておいしいと思いました。結局一人で食べました。
【写真】
IMGP6710

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2014年12月21日

027 桜田慧「輝くものすべてが黄金だとはかぎらない」

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長いこと、メルマガをさぼってました。
その間に、先月末仙台に行ってきました。
入社当時の上司に会いに行ったんです。
夜の親睦会だけお会いし、楽しんできました。

翌日は松島を訪れました。
さかな市場でカキ丼を食べ、
新富山展望台からの眺望がすばらしいでした。
松島には、四大観という眺望の良い4カ所の高台がありますが、
遠くて行けません。
代わりに歩いていける新富山展望台に行きました。

五大堂でお参りし、松島湾を船で一周し帰ってきました。
点在してる島々の、松を載せた景色に見とれました。
芭蕉が句を詠めなかったという逸話にも納得しました。
【新富山展望台からの松島】
IMGP6536
【五大堂】
IMGP6564
【島々】 
IMGP6563

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輝くものすべてが黄金だとはかぎらない

モスフード 桜田慧

「これは単なる食べ物ではない。『立って食べる、街を歩きながら食べる』という、まったく新しいライフスタイルを提案しているように思えた」

モスフードサービスの創業者、桜田慧(さとし)は、昭和46年(1971)銀座で日本マクドナルドの第1号店を見たときの輝かしい印象を、こう振り返っている。

このとき桜田は、自らの手でハンバーガー店を開業する決心をする。マクドナルドが、桜田の生涯の事業を決定したのである。

だが、桜田が始めたモスバーガーは、マクドナルドに追従するものではなかった。あらゆる意味で逆の発想から出発していた。

創業にあたって、桜田は米国に飛び、ロサンゼルスのトミーズで修行する。いい修行の場だったが、自分の店をトミーズの味にするつもりもなかった。

マクドナルドもトミーズも、米国のハンバーガーは牛肉である。だが、日本の家庭では、ハンバーグはもっぱら牛肉と豚肉の合い挽きである。「日本人の口には、この方があう」と判断し、それならと玉ねぎも入れることにした。ソースも、醤油をベースにした。日本人の味覚にあうように調整された新しい商品の誕生である。マクドナルドが「アメリカ」をそのまま日本に届けるのとは対照的だ。

出店の戦略も、マクドナルドとの違いは、きわ立っていた。米国のファーストフード企業は、出店前に、候補地の通行量の多寡を綿密に調査する。いきおい、店舗は駅前もしくは繁華街となり、コストはかさむ。かさんでも、それだけの収益が見込めるという読みである。

しかし桜田は、その手法は、商業地域が時とともに移動しやすい米国だからこその手法と考えた。日本では事情が違う。

「昔ながらの商店街をよく観察してみると、必ず繁盛店があった。こうした店は、商品の良さと家庭的なサービスの2つが売りものだった。そしてどうしたわけか、知る人ぞ知るといった感じで、路地裏でひっそりと商売しているケースが多かった。私は『これでいこう』と決めた」。日本の風土に密着した出店戦略である。

ハンバーガーを通してアメリカ文化の一端を日本に定着させたのがマクドナルドだったとすれば、それを徹底的に日本化したのがモスバーガーだった。こうして桜田は、世界的な大チェーンに対抗しうる独自のハンバーガー店を作り上げたのである。(1分間自己啓発(成美文庫)より抜粋)


桜田慧(さくらだ・さとし)
1937年岩手県生まれ。60年日本大学経済学部卒、同年日興証券に入社。65年日興証券を退社。皮革問屋、ヒサゴヤ勤務を経て、72年渡辺和男、吉野祥(故人)とモスフードサービスを創業。18年間社長を務めた後、90年会長に就任。

ハンバーガーを日本化、「心と科学」の二等地商法
「お店全体が善意に満ちあふれ、だれに接しても、親切で優しく明るくほがらかで、キビキビした行動、清潔な店と人柄…」。朝、開店を前にしたモスバーガーの店の奥からは、ひときわ元気な声が聞こえてくる。桜田が示した「モス・ポリシー」なる行動規範を店長、店員が全員で唱和する声だ。桜田の経営理念に心酔して店を開いた者にとって、このモス・ポリシーは商売の大切な「教典」と位置づけられる。

こうした例からもわかるように、フランチャイジーが桜田に寄せる信頼は絶大だ。しかし、ここに至る道のりは平たんではなかった。本人は「職を転々として苦労を重ねるうちに、ビジネスの本質が見えるようになった」と言い、また、桜田をよく知る周囲の人間は「モス創業までの彼の人生は挫折の繰り返し。『今に見てろ』という気持ちが精神的パワーの源になった」(モスフード元幹部)と分析する。

昭和12年(1937)1月19日岩手県生まれ
昭和35年(1960)日本大学経済学部卒業
昭和35年(1960)日興証券入社
昭和40年(1965)日興証券退社
皮革問屋、ヒサゴヤ勤務を経て
昭和47年(1972)3月東武東上線成増に実験店オープン
昭和47年(1972)6月モスバーガー1号店「成増店」オープン
昭和47年(1972)7月渡辺和男、吉野祥と(株)モス・フード・サービスを設立 代表取締役社長
昭和48年(1973)11月フランチャイズ1号店新瑞店(愛知県)オープン
昭和61年(1986)6月外食産業初の全国47都道府県への出店を達成
平成2年(1990)代表取締役会長
平成3年(1991)3月モスバーガーチェーン1,000店舗目
平成8年(1996)9月東京証券取引所市場第二部より同市場第一部へ指定替え
平成9年(1997)5月24日死去、60歳
平成10年(1998)10月モスバーガーチェーン1,500店舗目

【モスバーガー】
モスバーガー(MOS BURGER)は、株式会社モスフードサービスが展開する日本発祥のハンバーガーチェーン、および同店で販売されているハンバーガーの名称である。
日本人の好みにあったハンバーガーを提供することを掲げ、日本のハンバーガーフランチャイズ店でのシェアは、日本マクドナルドに次ぎ第2位。同社の公式サイトによると、2013年3月での店舗数は日本国内で1431店舗(直営店87、フランチャイズ加盟店1344)、国外で311店舗(後述)となっている。
素材を厳選し、注文を受けてから作る「アフターオーダー方式」など、スローフードの要素を取り入れているのが特徴である。その味の良さから人気があり、利用したいハンバーガー店ランキングでも上位にランキングされている。

1990年代後半のマクドナルドに端を発するファストフードチェーンの値下げ戦争の中で、ハンバーガーを10円程度しか下げず、大幅な値下げを行うことはほとんどなかった。「当時一番売れているタバコの値段を元に“モスバーガー”の値段を考える」という、基本的なポリシーを遵守してのことである(櫻田の講演より)。

日興証券(現・SMBC日興証券)を脱サラした櫻田慧(1937年1月19日-1997年5月24日、60歳没。岩手県大船渡市出身。東京都立大森高等学校、日本大学経済学部卒)、渡辺和男、吉野祥が、1972年3月12日東京都板橋区成増で1号店をオープンさせる。この際、アメリカのハンバーガーショップ「トミーズ(Tommy's)」を経営の参考とした。

創業以前から低価格が売りであるマクドナルドとの差別化を考えていたモスバーガーは、高価格、高品質という高級路線を今日まで歩んできた。高いコストをかけてでも商品の味の向上を徹底させるという経営戦略は、「日本人は味覚にうるさいので、食べ物はうまくなければいけない」という創業者たちの理念に基づいている。創業当時は資金不足のために他のファストフード店より宣伝力が弱く、一等地への進出も難しかったため、顧客に口コミで評判を広めてもらうことでしか事業拡大が見込めなかったことも高級化を行った理由の一つである。

商品開発の際、桜田社長は試作品の新開発メニューを必ず満腹の状態で試食するというポリシーがあった。「満腹の状態で食べても美味しいと感じられる商品こそが本当に美味しい食べ物である」というこだわりからであったという。


桜田はハンバーグを作るに当たって、色々な事情からマックに対抗し、高価格・高品質、日本の味付け、住宅地など厳しい条件で、それでも「美味しい」ハンバーグという理想を持ってモスバーガーを展開した。

低額ハンバーガーのマックに対し、高級品のモスというイメージで、駅から少し離れているモスには数える程しか行ったことがなかった。美味しいのだが、この値段?ってマックと比べてしまう。自宅の近くにハンバーガー屋さんがないので、行った先の近くで探すのでマックが多くなってしまう。値段については、私の低価格志向のせいだと思う。最近は原材料期限を無視した鶏肉などの製品などもあり、中国産は敬遠する傾向にある。品質に対する意識が違う。

先日のテレビで、中国と日本のそれぞれが相手国に対し90%以上の方が嫌悪感を持っているとのこと。いいことではないが、今の情勢・状況では仕方がないことと思う。ただ改善していかなければ。

今の中国は軍国化、領土拡大、民族強制教化など納得できないことが多い。中国内の共産主義一統政治を守り、国内反発を抑えるため日本や他国を標的にしているのだが、世界からは賞賛を得られない。また他国からの改善は武力以外では難しい。現在の習近平国家主席は更なる国家強化を図ろうとしているようで、中国には警戒を強めざるを得ない。

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Posted by t6095_1208 at 01:57コメント(0)
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